2024年2月29日 作成開始

2024年9月5日  更新

 

すべての著作権は、山野目辰味に属します。

 使用した地理院地図の加工はすべて山野目辰味が行った。

 

見出し写真は、住田町世田米川口から柏里の間、水力発電所が住田高校、および国道107号線南の大股川をはさんで川の南岸に残る、岩砕きをして大股川縁に作った盛街道が残っている部分です。川向に国道107号線のガードレールが見えます。

 

<盛街道概略>

 盛街道は、奥州道中の水沢の不断町から分岐し、岩谷堂、米里の人首を経由し、種山(物見山)を越え、世田米村の小股、世田米を経て、大船渡市の旧田茂山村の盛町に達する、仙台藩の脇街道である。人首までの道筋は、胆沢平野の東側を経由し、ほぼ平坦な地形を往く。その後山本から物見山に登り、三町の近傍を盛岡藩領を避けるように、三町を回り込むように東に長根道を往く。荷沢近くの現在の夕日山(当時は赤坂山)の南側を仙能沢と赤坂沢の間の長根道、”長崎峠坂”を畷畑に下る。小股を経て雲南坂などを上り下りし、柏里、

川口の大股川、盛川の南岸を行き、大渡で北岸に渡り世田米に入ります。

1, 水沢不断町から人首

A-1)不断町の街並み

 ここは奥州道中で、北上して十文字から東に分岐するとこから奥州街道をはなれた真の“盛街道”がはじまる。

B)奥州街道が現在の国道4号線と合流したところに、石碑が

取り残されたように佇んでいる。

C-2)五十瀬神社、不動堂、伊勢堂。

 右に見える白井坂の脇にこのお社が旅人を見守っている。この先の旧道は消滅しているが、まっすぐ北上河原にでて、渡し場である。

A-2)不断橋

ここから奥州街道と盛街道が一緒にはじまるとされている。

C-1)十文字

左側にあった石碑群は八幡神社に移設されている。この奥州街道から右折し、盛街道のみがはじまる。


 仙台藩御蔵番所後から旧道は北上するが、B)地点で県教委の歴史の道調査報告書「盛街道」での経路比定は、青のラインとなっている。しかしここには桶渡伊勢神社方面から八日町に至る道筋ではあるものの、絵図など種々の記録からも調査結果のように朱のラインで示す経路が最も考えられる。また八日町から川原町の経路も中町をたどる経路、秋葉神社前を通る道筋も県教委報告書のように考えられるものの、川原町筋に松岩寺や石碑も前者よりも多くみられ、むしろこちらに否定されると考えられる。さらなる検討が必要である。

 その後大橋を渡ると、人首川べりを左折する盛街道、また直進し南町中で北に折れる”江刺往還”に分かれることとなる。大橋の東側袂には道標を含めた石碑群がある。

A-1)下川原の渡し付近

水沢側から渡し船で北上川を北に渡り、このあたりに着く。現在は木々が大きくなり河原から北上川の流れは見えにくい。

A-3)北上すると愛宕神社を左に見つつ往く。

C-1)八日町で斜め右に分岐する旧道。左の看板前に石碑が残っている。

C-3)大橋左岸袂の道標などの石碑

 橋を渡りすぐに左折が盛街道、直進が江刺往還である。

A-2)河原側から仙台藩御蔵番所を望む(立木のあるあたり)。街道はここから岩谷堂に向かい北上していく。

B)地蔵堂

 

C-2)大橋の西岸袂

 


A)大橋を北に曲がると、重染寺の崖が人首川に迫る際を、旧道跡が北上している。

B-2)中野前南側の縣道南の20mほどの田中に石碑群が残り、ここに旧道があったことを示している。

D-1)高屋敷坂(県道から左に行く道)

 県道に吸収された旧道を人首川沿いに北上すると北の山が川に迫るところから旧道は縣道を離れて山際にあがる、高屋敷坂という。

D-3)街道筋には数か所石碑が残っている。

B-1)人首川が重染寺北側でくの字に屈曲するところで前田町に渡り北上する。そこから現在田となっているところを北に向かう。

c)中野では旧道は縣道の北側の中野集落内の道である。

D-2)蛤坂

高屋敷坂を上り川から一段高い山の腰に街道があり、高杉一里塚が北塚のみ残っている。旧道もよく残っている。

D-4)蛤坂北側

 玉崎神社脇を下ると再び県道と一緒になる。



2,人首から小股

 シリカイズメ坂南から長崎坂まで未踏査です。

来シーズン以降の踏査結果をご期待ください。

3,小股から世田米

4,世田米から盛